日経新聞文化欄にコラムを書きました。

日経新聞(2014.1.15朝刊)の文化の欄に「将棋寄席 絶妙の受け」と題したコラムを書きましたので、ご興味のある方にお読みいただければと思います。

将棋と将棋についての文章を愛する人が集まった会がある。将棋ペンクラブという。そのまとめ役が湯川博士(ハカセではなくヒロシと読んでください)という人物だった。この男、大のおしゃべりで落語好き。好きが高じて、自分で高座に上がりたいと夢みていた。なにしろ自分で「仏家シャベル」、すなわち「ほっときゃしゃべる」をもじった高座名までつくりその機会を虎視眈々と狙っていたのである。だが、一人でそれは出来ない。

 

そこに事件が起きた。‘02年秋、ある将棋トップ棋士のタイトル獲得の祝賀会で、私が酔った余り壇上で口三味線。都々逸を唄ってしまったのである。これをすかさず見咎めたのが湯川である。「こいつは落語の素養がある」そう狙いをつけ「木村さん、高座でアマチュア落語会をやりませんか」と因縁(?)をつけてきたのだ。

たしかに私は子供のころから落語好き、弁護士になってからも宴会芸として落語の真似事はしてきた。しかし、本物の落語家が座る高座に上がろうなどという不届きな考えは持ったことがない。ただ、そういう姿に憧れていただけである。

「とんでもない」と断ったが、その後に「ホントに高座に上がれるの」と続けてしまったのが運命の分かれ道である。気づいたときには「木村家べんご志」という高座名まで決められていた。あとは、雑誌クロワッサン編集部(当時)長田衛、漫画家バトルロイヤル風間などが巻き込まれてくる。いずれ劣らぬ将棋好きの噺好き人間である。「将棋寄席の世界」ができあがってしまうのは騎虎の勢だった。

落語と将棋という二つの伝統文化の交流点を創る、と高尚なことをいうやつ、両方とも「よせ」が肝心だ、と洒落るやつもいた。

 

かくして将棋寄席は04年から毎年暮れに一回開催されることとなった。何とアマチュアのくせに入場料2千円。おまけに出囃子は生三味線生太鼓でやる。大概の素人寄席では出囃子はCDが常識である。時には三味線の師匠に俗曲をやってもらったこともある。

会を前に、約2時間にわたる入念な?お稽古会、その後延々と続く打ち上げ会。これが将棋寄席の原動力だった。取り決めたこと。一つには演者は落語の中に必ず将棋の話を入れる。二つには落語のプロに出演してもらう。三つには将棋のプロにも出演してもらう。この三つである。

この取り決めがかなり厳しく守られたことによって、アマチュア落語会の中でも異彩を放つ寄席となった。

このなかでも、一番難しかったのが、プロの落語家の出演確保だった。第1回から第5回までは、詰め将棋の作家でもある桂九雀師匠が大阪から駆けつけてくれた。三遊亭とん楽師匠や浪曲師の出演もあった。第6回からは、桂扇生師匠に最終10回まで出演願った。

 

落語の中に将棋の話を入れるといっても、これは簡単なことではない。私は2回失敗している。そこにいくとプロの芸は全くもってすごい。九雀師匠は「将棋の飛脚」という新作落語を将棋寄席のために作ってしまうし、扇生師匠も将棋の世界を古典落語の中に大胆に組み込み、全く新しい噺に仕上げていた。師匠たちの噺を聞くことが、観客ばかりでなく、将棋ファンであり落語ファンでもあるアマチュア演者の喜びだった。

将棋のプロも豪華メンバーだった。第1回から、中原誠名誉王座(当時日本将棋連盟会長)の登場。「円生、志ん生などの古典落語のカセット・テープを聴くことが将棋の対局に役立った」という裏話に会場は沸いた。現役最高峰の棋士、森内俊之名人、渡辺明竜王(当時)にも出演してもらっている。

そればかりではない。女流棋士の中には落語で出演してくれた人がいる。山田久美女流三段と石橋幸緒女流四段だ。それぞれ、高飛車おくみ、ビシバシ亭さちお、の高座名で会場の笑いと拍手をあびた。

さて問題は素人演者の面々だが、プロが、え!と驚いて止めに入りかねない大ネタを演じまくった。出来はともかくすごいの一言である。昨年暮れ、第10回で幕を閉じたが、油断をするといつか復活の日もあるかもしれない。なに、おい、生き返らねえように頭よく踏んづけとけ!って。ゴキブリじゃありません。